一年くらいかけてずっと、すこしずつこの本を読んできた。やっとひととおり目を通すことができた。
ところどころ、わかったりわからなかったり。
私にとってはあらたな世界が開かれるような本だった。
「ひとつではない女の性」とはどういう意味なんだろう、と思っていた。最近それがわかった。
「女は存在しない」というラカンの言葉がある。フロイトによれば、女は男の欠落として描かれる。男という性しかそこには存在していないようだ。
だが、この本のタイトルは、性はひとつではなく、女という性もあるのだ、という主張なのだと思う。
この本を読むまでは、男と女は対等に存在していると思っていたが、イリガライによればそうではない。
女は男によって交換される商品であり、言語は男性により規定されているので、その中で女性は隠蔽されている。
言語により世界は成り立っているので、女性がそこにいない。というようなことだと思う。
イリガライは残酷なこの世界の本質をえぐるように描き出していく。
そして、そのうえで女はどうすればいいのか、についても考えている。
哲学の言説を検討しかく乱しなければならない。言表の一貫性が隠蔽するものを検討すること。
女性が主体や客体であるような新しい理論をつくることではない。
理論の機械装置そのものを故障させること。
そして知において男と対等になりたいと思わないこと。
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男と対等になりたいというような女性たちの動きをこのごろとても感じるが、イリガライに共感し、私はそれに同調しない。
私は男になりたいわけではないのだ、と思う。
やっとイリガライの考えをすこし理解できてきたように思う。これからもずっと読んでいくだろう。