今回の森喜朗氏の件についてもやもやしている。
森氏の発言は「差別」なのかそうではないのか。
そもそも差別とはなんなのか。Wikipediaには以下のように書いてある。
差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為である。(中略)国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている[1]。Wikipedia
この定義によると、差別とはなんらかの「行為」であり、実際の不利益を生じるようなものであるらしい。
森氏の発言は、誰かに現実的な不利益を生じさせたのか。たとえば誰かが解雇されるとか、のような事であるが。
一応、発言の全文を読んだが、森氏の女性への見方がそこにあるだけで、それは、世間一般に男性が持っているような見方であり、特別に実際の不利益を女性にあたえるようなものには感じない。よくある話としか思えない。また、話だけであり、誰かに対して特別な扱いをしたわけではない。
だから、定義としては差別ではないだろうと、私は思う。
一方、差別とはWikipediaによると以下のように、ある事項差別と判定するのは難しい、とされている。つまり、解釈によるものであるところが大きい。
ある事柄を差別と判定する場合、告発する者の伝達能力・表現力と受け手の感性に因るところが大きく、客観的事実として差別の存在を証明するのは実際にはそれほど簡単ではない[2]。なぜなら、差別として疑われるとある待遇について、その待遇が正当か不当かについては、時と場合によって様々な解釈ができ、議論の余地があるためである。
私は、森氏発言を「差別」と思うかどうかというと、そうは思わない。実際、森氏のように、自分でも気づかずに女性を下に見ている男性は多いと感じる。それは世界のデフォルトであるような気がする。意識にのぼらないほど、受け入れており、うっすらと沈んだ気持ちを感じている。だが、それは少なくとも「差別」ではないと思う。それが世界のデフォルトであることを受け入れ、なんらかの形で克服していかなければならないものであると思う。勝ち取っていくものであって、差別だというような善悪の問題にすり替えるのはおかしい、のではないだろうか。
むしろ、自分から辞任したにしても今回実際の不利益を被ったのは森氏であるような気がする。また、森氏は、年寄、などと言われたりもしているようだ。それこそいわれのない差別のように感じる。
5年前くらいから、「女帝時代」というテーマで、エリザベス女王やサッチャー首長などとウツボを組み合わせた作品をつくっていた。それは、原発事故に当時立腹していて、原子力発電をすすめたのは男性であり、その結果が放射能汚染された世界だ、だからこれからは女帝の時代だ!と言ってみた、という作品であったのだが、女帝の横にウツボを描いたのは、この世界を作ってきたのは男性であるのに女性が上に立つということが、これまでとは違う異質な世界になっていくような恐怖を感じて、それをウツボで表現したのであったが、男性が抑圧してきた部分を女性が担ってきたとして、その女性が男性の作った社会を今後取り仕切っていくとしたら、この世界はどうなっていくのか。私は、あまり楽観的ではない。そのような時代が訪れることを感じての制作だったのだろうか。
「女帝時代」以来、今も女性をテーマにした作品をつくり続けているのは、自分も女性であり、そこからみた世界の動きを常に観ていなければならない、と思うからかもしれない。
と、書いていたら、大きな地震がおこり、311の日の恐怖を思い出した。